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―オーディオと音楽・タイムドメイン―
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Grand Scepter(GS-1)のカタログより抜粋
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『ブラームスの「いぶし銀」の弦を「影法師」の漂いを聴かせてくれる』
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定位は、左右の音量差で決まるというのが、これまでのスピーカーについての考えかたでした。しかし、私たちは、それだけでは充分ではない、と考えました。時間もピシッと合わさなければならない、と。
グランセプターのように、時間特性のピシッとしたシステムでは、遅延装置で片チャンネルの信号を遅らせますと、音像は音が先に耳にとどく側に移動します。
左右の音量差で音像を右へ持っていって、時間差で左へ引き戻し、中央に定位させることもできます。
この場合は、レベル差と時間差が相反する方向を示した結果の中央定位ですので、音像は不自然です。同じ中央定位でもいろいろな性の音像のあることが、グランセプターを聴いているとよくわかります。
グランセプターは、レベル差、位相差、時間差等のすべての情報で音像をつくりますので、すべての音像情報が合致したとき、驚くばかりの音場をリスニングルームに再現します。
反対にマルチマイクの信号を不自然にミックスしたり加工したりした録音のレコードでは、再生能力の低いシステムでは気付かなかった不自然さが聴きとれる場合もあります。音像定位が正しいと、音の成分が、隣りの音の成分と混じらないので、それぞれの音も正しく再生されることになります。
このように精密な定位が得られたことで、音楽再生は新しい次元に突入したと言えます。
たとえばブラームスの交響曲第四番のはじまりのところで、ヴァイオリンが主旋律を奏でます。それを二部に分かれたヴィオラと、チェロ、コントラバスが支えて、ブラームスの特徴となっている「いぶし銀」のような中低音の重厚な響きを作り出しています。 それにこだまするように、オーボエを意識的に抜いて柔らかな感じをねらった管が影法師のようにふわーっ、ふわーっとくっついて、流れてきます。演奏会場で聴いていると、それがはんとうにこだまのように聴こえてきます。
特にこのカルロス・クライバーのレコードは、ウィーン・フィルですから、木管がたっぷりとまるい音色で、たいへん美しい効果を出しています。これは、いままでのスピーカーの表現力をはるかに越えたものでした。
これは、すべてのパートがよく似た音を奏でているのですから、ふつうのスピーカーでは、はっきり楽器の音を分離できません。また、あるスピーカーの場合は、分離できることはで
きるのですが、こんどはその分離した音がきれいに重ならず、ハモらないのです。
さらに、あるスピーカーの場合は、たしかに弦楽器と管楽器は分離して聴きとれるのですが、その関係が実際の演奏とはまったく逆に聴こえます。。ブラームスが影法師のように漂わせたかったはずの木管がキラキラと輝やいてしまい、いぶし銀のように鳴らされる弦のまえに張り出してきて、管が弦を支えるのでなく弦が管の伴奏をしているように、聴こえます。
ところが、グランセプターは、時間軸をぴったり合わせてありますから、このブラームスのオーケストレーションにおける、「いぶし銀」の弦、それにこだまのように寄り添う木管の「影法師」のような漂い、そのなかにこめられたブラームスのロマンティシズム、そのオーディオ的再現を、初めて可能にしました。
ブラームスはこの交響曲で、非常に意識的な楽器の使いかたをしています。たとえば、曲の冒頭、一つのフレーズが終わって次のフレーズにいくまで、オーボエはずっと休止符になっていて、フレーズの最後、18小節目に、はじめて、オーボエがヴァイオリンを受けて登場する、きわめて印象的な瞬間があります。
それからまたあたらしいフレーズがはじまるわけなのですが、まさにそこでオーボエがうたわざるをえない必然性、そういうところの聴かせかたはまさに見事なものです。
チェロとホルンが第一主題を朗々とうたうところでは、チェロとホルンの二つを聴かせたいのではなくて、ホルンはチェロの幅をもたせるというか、もりたてるというか、そのために、そこに書かれているのです。『交響曲弟四番』は、そのホルンを、ちょうどブラームスがそこで意図したように、鳴らしてくれるスピーカーにはじめて出会ったというわけです。
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