「JAS journal」 '94.12月号(特集「音の日」にちなんで)
随想 自然界の音・自然を壊す音
由井啓之
オーディオ固有の音
オーディオの音には一聴で判る特徴があります。一つはボンボン響く低音、もう一つは刺激的な高音です。
あと一つ付け加えるならば、時間のずれでしょう。周波数成分的に聴いた時はさしたる不足も見つからないのに、不自然で不満な音は大抵そうではないかと思います。
私自身は40年位前のボンボン響く低音と、高音をすっかり切り取ってしまった電蓄時代から始まって、ドンシャリのHiFi時代、リバーブユニットや4チャンネルでオーディオが一寸横道に迷った時代、とオーディオを続けて来ました。
そして自然の音が一番良いのだという平凡な考えに至りました。
自然な音を再生するには、時間的考察が必要です。これについてはあちこちに書き散らして来ましたので改めて書きませんが、周波数成分再生よりも波形再生と言うことです。これを微小信号まできちんとすれば、人の心を動かす再生が出来ます。
周波数特性(連続正弦波)を主とする風潮の一因は測定技術の発達過程にあったと思います。音に関係ある測定として、CR発振器とバルボルで周波数特性をプロットすることから始まって、スイープジェネレーターとオシロスコープと歪率計の時代となり、B&Kj全盛の時代まで、アマ・プロ共に周波数ドメインの測定と考察が主でした。
オーディオシステムをプリミティブに考えれば、楽器が音を出し、その音圧波形をマイクロフォンが電圧波形に変換し、アンプがそれを増幅し、その電圧波形をスピーカーが音圧波形に変えて放射する、ということですから、周波数系は特に考えなくともよいわけです。補助手段としては有効ですから使ってよいのですが、こちらを主として考えてしまったのでは多くの間違いや不自然を犯してしまうことになります。
自然と不自然
人間の耳は自然なものには寛容ですが、不自然なものに対しては非常にシビアーです。不自然なものに対してはチェック機能が働き、その様な情報は意識領域でとどめ置かれ、潜在意識領域までは至りません。
心の領域まで達し、深い感動を与えるには、扉を閉じさせない自然な音であることが必要条件と思います。
研究室で音楽を聴き、涙して下さったお客さんは多くいらっしゃいます。所謂オーディオ音しか出ていない時は、いくら良い音でも、泣いていただいた経験はありません。
周波数成分的には良くても時間ずれがあると、波形は崩れます。山は必ず低くなり、谷は必ず浅くなります。この結果微少情報も消え、表情や音色の差も無くなります。声楽でも楽器でも、音の頭に思いが込められていますが、低域が遅れますから、思いも伝わらなくなります。
人間、感極まる時、涙が出ます。このことから私はハイレベルの感動を涙で計っています。
海外へ行くと絵をみるのが楽しみです。しかし名画の前で涙している人を見たことはありません。すばらしい出来の音楽会では何度か見たことがあります。このことから、心にとって絵画より音楽が上だと言うのは乱暴でしょうか。
少なくとも、ルノアールやフェルメールと、モーツアルトやバッハに優劣は付けられませんし、何れも人類にとって宝と言えるものです。しかし億円単位の名画は手に出来ませんが、名曲なら入手出来ます。
それがオーディオの存在価値と考えています。心の領域まで届くそのようなオーディオを創るのが、オーディオ技術者としての使命であると同時に、他エンジニアには望めない喜びであると考えています。
自然を壊す
昨年、インドの田舎で1週間ほど過ごしました。野菜や果物がおいしいのに驚きました。3日目位に自分の肌がつるつるしていることに気がつきました。そこは日本の明治時代の農村と言った環境で、空気も水も自然のまま、化学肥料も、農薬も、品種改良もありません。果物なら畑から採って来てそのまま食べる。野菜なら煮炊きするだけですが素晴らしくおいしいのです。
我々は長年に亘って科学的努力を重ねた結果、本来おいしかった物をまずくして、健康までも知らずに害していたのではないかと痛感しました。
音や、オーディオの世界でも同じことではないかと思います。
誕生したばかりの(胎内での)脳に刺激が加わって、刺激に対応して次々とニューロンがシナプスで結ばれ人間としての脳が創られ、人間として育って行きます。耳が先ず働き出しますから、初期の刺激は音が支配的です。誕生脳が狼の環境にあれば、ハードウエアは人間でも、ソフトウエアは狼そのものになってしまうことは良く知られています。
音がこのように大切なものであるにもかかわらず、我々の努力は自然や人の心と少し離れたところで行われていたのではないかと思われます。我々は多くの騒音や、多くの再生音の中で暮らしています。インドでの経験同様、音の世界でも知らずのうちに我々は精神的にスポイルされているのではないかと思います。
音や音楽と、精神や心の関係の研究が行われています。情操教育や心理療法にも使われています。関係者の方には叱られるかと思いますが、これらがもう一つ効果をあげ得ないのは、再生装置がそのレベルに至らないせいではないかと思います。
試聴室への来客がこの種のCDを持って来られたので一緒に聞いたことがありますが、これは録音も演奏もベストとは言えず、良いシステムで聴いても感銘までは至りませんでした。これではバッハを聴いてもモーツアルトを聴いても同じです。意識領域で処理されるだけで、心の深く潜在意識領域までは届きません。
反対に良い演奏を素晴らしい音で再生出来れば、音楽の種類によらず、それぞれの人にそれぞれの良い作用を与えるはずです。感動を与えるものがその人にとって最も必要なものであるからです。感動しないものは無効であると思います。
学校の音楽教室で嫌々音楽を聞かされている子供を連れてきて、同じ曲を聴かせたことがありますが、素晴らしいものとして感動的に聴いているのが明らかでした。人は何に感動するのかは、難しいところです。そのようなオーディオを創るのも同様です。長年それを考えて、少しは手掛かりも得たつもりですが、これを紙面で説明するのは困難です。音を先ず聴かないと始まりません。ぜひご一緒に音を聴いて話し合いたいと思います。
ファンダメンタルで普遍的なもの
研究室にはいろいろな方が来られます。オーディオや音楽についての関心度も、職業、性別、年令、国籍も千差万別です。良い音が出ている時、良い音楽を聴くとジャンルに関係なく全ての人が素晴らしいと感じられるようです。音楽的教養とか耳の良さには関係ないように思われます。勿論そういうものによって感銘に差はありますが、良いものは誰が聴いても良い様です。普通レベルのシステムでは、好き嫌いや、聞き慣れない音楽を聴かされて分からないと言うこともありますが、一般のオーディオの次元を越えて「心のオーディオ」と呼んでいる次元のレベルになりますとそう言って間違いはないようです。
インドで少し考えたことがあります。桃源郷の様な処で座っていてふと思いました。「ここの自然は何故こんなに美しいのか」。花も、小鳥も、風景も美しいのです。
花は、昆虫や小鳥を呼び寄せるため美しく装っているのでしょう。とすると花も、昆虫も、小鳥も、私と同じくそれを美しいと感じていることになります(花は淘汰されて残ったのかも知れませんが)。
小鳥や、魚や、多くの動物が見せる婚姻色も同じです。彼等がそれを美しいと思うように、我々もそれを美しいと思うのですから、美意識は同じと言うことになります。
そう気が付くとインドの人達の服装もそうでした。彼等の民族衣装と我々のそれは好みは違いますが、美醜の方向は同じです。
美醜の判断は、学習的に得た能力ではなく、本能として生まれ付きのものと言えるでしょう。虫や、魚までの共通の本能とすると、これは相当重要なものと言えましょう。
食欲や性欲と同じに必要なものと言えます。人間が物理的に生きて行くのに美意識が必要とは思えませんでしたがそれが本能レベルにあると言うのは重要なことです。それは脳や心に必要なもので、それがないと生物としても生きていけないのでしょう。
音楽は、人間にとって重要な「音」と「美」により構成されています。試聴室の例のようにこれにも学習や知識教養に拠らない普遍性があると思います。
明治末期に日本に来て、絵入り写真入り日記を残したゴードンスミスという人がいます。この人が伊勢の答志島へ行って蓄音機を聴かせています。いまだかって聴いたことのない音楽を聴いた島人が喜び楽しんでいる様が伺われます。悲しい音楽を聴くと悲しい顔を、コミカルな音楽を聴くと楽しい顔をしたとあります。
おわりに
自然な素材を、自然に素直に再生するオーディオこそが、心の奥底に届くこれからの本物の姿であると考えています。
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